思い出の中の野球

僕にとって野球の最初の記憶は何だろうと思うと、おそらく父が兄に買ったのであろうプラスチックバットと古ぼけた柔らかいゴムボールだ。それがなぜ兄に買ったものだと解るのかというと、思い出ではすでにバットに施されたビニールのデザインカバーが剥がされ、グレーのプラスチックがむき出しの状態だからだ。そのバットは僕が小学校の中学年くらいになる頃に、より早いスイングをする為にグリップエンドが削り取られ、真のあたりはさらなる軽量化が図られた為無数の穴が空いていた。今でいう非対称グリップエンドの走りで、コルクバットの原理と同じである。しかしながら、そのおかげで失った強度のせいですぐ折れてしまい、あっと言う間にゴミ箱送りになった。しかし、そのバットで野球をした記憶はほとんどない。父と何度かキャッチボールしたり、投げ込む球を打った記憶はあるけれどそんなに野球に夢中になる事はなかった。家には父が会社からパクってきたバドミントンのラケットやテニスのラケットがあったり、水泳に通ったり、ローラースケートを買ってもらって兄や近所の友人達と遊んだり、とにかく雑多なスポーツに触れて幼少期を過ごしていたと思う。それはスポーツに限らず、時には本を読んだり、アニメを見たり、ファミコンしたり、空き地にカマキリやバッタを捕まえに出かけたり、夏には兄と父の田舎でカブトムシを捕まえるのが恒例だった。そういえば小学6年生までピアノに通っていた。音楽は好きだったけど、なぜかピアノには一切ハマらなかった。今でもピアノの音は好きで音源を漁ってはいるけれど、練習は一切しない。今の時代は打ち込みという便利なものがあるのだ。

小学校中学年くらいまでは特に何か一つのことに没頭したという記憶より、四季折々充実していたという思いが強い。天性のゼネラリスト気質はこの辺から培われていたのかもしれない。そう思うと、今の人生は初めから仕組まれていたような気さえする。

実はサッカーも好きだし、スポーツ全般好き

小学生の低学年の頃にJリーグが始まり、すごいブームだったのでその頃は野球より断然サッカーだった。カズ、ラモス、武田、ペレイラ、今でもこのころのヴェルディのイレブンは言える気がする。この頃はグランパス対フリューゲルスみたいな試合ですら民放のゴールデンタイムで放送されている、今では信じられないような時代だった。その世の中の流行りに節操なく影響された子供の一人だった。おかげで今でもサッカーよく見る。なんでこんないヴィッセルが弱いのかね、と愚痴の一つくらいは言ったりしている。当時は巨人戦の中継いらんからJリーグやれや、と思っていた。まして阪神戦なんて。でも、亀山、新庄出てきたの頃の一年だけ阪神ファンになり、母に神戸そごうで八木の3番のリストバンドを買ってもらったのは内緒である。今でいうチャラい小学生だった。

運動は出来る方だったからスポーツはやるのも見るのも好きだった。でも、器械体操系は嫌いだった。痛いとか苦しいのがどうしても嫌だった。鉄棒やジャングルジムの遊具は大嫌いで、実は逆上がりが出来なかった。それは鉄棒の前に行くとやる気がすこぶるなくなり、どうでもよくなったからだ。成績つける時も初めから出来ないで結構、って感じだったので小学生の頃は多分トライすらしていない。高校2年になって逆上がりのテストがあって出来ないと補修があったので三度くらいトライした。一度目のテストで失敗して二度目か三度目で腕力で無理やり回って成功した気がする。間違いなく人生で10回はトライしていない。代わりに球技は大好きで何でも得意だった。家にはバスケ、サッカー、テニス(兄のだけど)、野球など色々なボールがあった。ラグビーもV9時代の全盛期の神戸製鋼のお膝元という事もあり、小学校高学年の頃にラグビーは一通り覚えた。本当に雑食な毎日だった。

父も運動は結構出来た方らしいが、熱血な部活に青春を費やすタイプではなく、サッカーや陸上など助っ人で楽しむゼネラリストタイプだったらしいからやっぱりその血も引き継いでるなぁ、と今思い返すと感じる。父が巨人ファンという事もあり、父が帰ってくると巨人戦かNHKのニュース、天気予報にチャンネルが変わるという家庭だったので一応巨人ファンとして育った。とはいえ、この当時将来野球に夢中になるなんて日がくるとは夢にも思わなかった。野球は小学生になったら低学年のうちから始めるような熱血な奴がやるスポーツだと思っていた。

親友と震災とオリックスとイチロー

そんな僕が野球に再び出会ったのは小学5年生の時だ。仲のいい幼稚園時代からの友人と初めて同じクラスになった。彼はずっと低学年の頃からソフトボールをやっていて、運動はだいたい学年でトップクラスで出来た。そいつとつるんでいるうちにまた公園で草野球したり、野球が少し身近になった。そして時を同じくして母がオリックスブルーウェーブの本拠地グリーンスタジアムでバイトを始めた。この時はたしか銀行のパートもして掛け持ちしていたから、当時はなんとも思わなかったけれど今は感謝しかない。兄と僕の二人を私立の中学に入れていい大学入れようと思うと結構経済的に大変だったと思う。実はその時神戸に野球チームがある事すら知らなかった。オリックスは一応野球ゲームで知っていたけれど、車で30分くらいのところに球場があるなんて全く初耳だった。それくらい僕の中ではオリックスは空気だった。しかし、否が応でも注目せざる出来事が二つあった。それはイチローの出現と阪神大震災である。

そのシーズン、イチローは彗星のように現れ、シーズン200安打を達成した。突然現れたスターに僕はクギつけになった。日本中が注目するスターは家から車で30分ほどの距離にいて、しかもその球場の売店で母はバイトしている。なんとも不思議な感覚だ。当の母本人は全くイチローに興味がなく、球場でシーマから降りてくるイチローを見かけても「イチローちっさいで」くらいの感想しか持たなかったらしい。

そして一気にオリックスに注目が高まる中起こったのが阪神大震災である。

自分の住む地域は揺れは激しかったものの被害は少なかった。住んでいたマンションも数日は断水していた気はするが数回下までポリタンクに水を組みに行ったくらいだと思う。しかし、神戸中央卸市場の近くに住んでいた親戚の家の裏の立派なビルが文字通り横尾倒しになっていたり、宝塚にあった父の会社の近辺はテレビで見る惨状そのままだった。これほど僕の人生観を変えた風景はない。震災後一週間で神戸より西側の山陽本線は開通した。しかし、普通電車に乗って神戸に近づくにつれて広がる倒壊した建物の山や煙の立つ長田の惨状を前に乗客は、シンと静まり返っていった。立派な建物が全壊する横でボロいアパートが生き残っていたりする。そこには目に見えないところに隠された力と、見えるが故に隠される事実がある事を学んだ。

そんな悲惨な阪神地区の惨状の中で選抜甲子園はなんとか開催され、プロ野球のシーズンは開幕した。オリックスは頑張ろうKOBEのスローガンを抱えそのシーズンを戦い、見事シーズンを制した。その時のイチローは象徴であったし、当時神戸近辺の小学生は皆オリックスの野球帽を欲しがった。僕くらいの世代の人間にはあの時のオリックスのメンバーは仰木監督含めて特別な存在だ。そのおかげで僕は中学になったら野球部に入ると決めたし、野球部に入る為に中学に進学すると思っていた。だからその後はほとんど勉強に興味がなかった。そして、僕は小学5年から左打ちに変えた。これはイチローに憧れたのもあるし、件の友人が右投げ右打ちだったから同じ事していては勝てない思ったという経緯もある。でもはじめに真似したのはPL学園の福留孝介だ。夏の甲子園でライチポール際にホームランをぶち込んでいて憧れた。流石に振り子打法を真似するのは恥ずかしかったし。左打ちに変えたおかげで打てるようになったのは中学2年になってからになるのだが。

こうして僕は野球に出会い、野球に没頭していく。

今でも一応オリックスファンのつもりだが、不甲斐ないばかりである。開幕のT-岡田1番のラインナップを見た時点でこうなることは目に見えていたが。

続きはまた今度。

 

読んでくれてありがとう。

僕はこう思う。

Taiyo Haze


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