進学校私立中学へ

心の中の野球熱がふつふつと盛り上がる中、僕は当時県下では有数の進学校であった私立の白陵中学に進学した。白陵がある高砂市というのは中学の軟式野球がとても盛んで、当時15年で3回全国優勝し、確か僕の一つ上、僕の年は全国で2位か3位になっている。プロ野球にも長谷川滋利(オリックス、マリナーズ)、鶴岡一成(阪神)、真田(巨人、DeNA等)、田中英祐(ロッテ)、他コンスタントに輩出している。そんな事露知らず、僕は弱小中の弱小の野球部に中間考査が終わり入部した。

始めて本格的に野球をやり始めたわけだが、最初はやっぱり難しかった。

中1の時の三年生は殆ど一緒にプレーする事なかったけれど、うちの学校では珍しくかなりおっかなかった。同級生は無駄にソバットを食らってた記憶がある。 中高一貫校なので高校野球でもう一度一緒にプレーする事になるのだが、問題も多かったけれど大好きな先輩たちでよく可愛がってくれたし、あの試合は勝ちたかった。二つ上の先輩はうまかったけれど、一つ上の先輩は全員すぐ抜けると思った。少し考えは甘かったけれど。

今思えば軟式特有のゴロやあの球がへしゃげる感じに苦労したのだとわかる。バッティングはというと右打ちを完全に封印し、生まれた時から左打ちですみたいな顔をして始めたので試行錯誤の連続だった。体の成長と膨大なスイング量のおかげですぐにチーム一の飛ばし屋になったが、ゲームでは経験値の少なさも相まって全然打てなかった。毎日数百スイングはしていた気がするが、おかげで腰もずっと痛かった。足を一本足で打ってみたり、ありとあらゆる打ち方をしてみた。気がつけば手が血みどろなんて事もよくあった。バッティンググローブをつけ始めたのもその頃だ。それは結局高校の引退まで続くのだけれど、僕の今の理論からすると全て根本的に間違っている打ち方をしていた。今の知識と情報があれば5割増しでいい選手になっていただろうな、と口惜しく感じることもある。背格好とポジションが似てるから多分吉田正尚みたな選手になれたはず(自称)。

結局、1年、2年の秋まではポテンシャルだけで全然活躍出来なかった。守備位置も結局チーム事情もあって内野、外野、キャッチャー、なぜかピッチャー以外の全てのポジションをやった。肩もよかったしほんとはピッチャーをやりたかったけれど、コントロールが悪かったのでお声がかからなかった。あの投げ方ではコントロール定まらないし、どの道肩か肘を壊していただろう。実際、高校の頃に肘を壊し、肘のしなりが効いた納得のいくボールは投げられなくなった。どの病院や東洋医学の治療院などでも悪くはないと言われたので酷くは壊れていなかったのかもしれないけれど、高校卒業後1年してもたまに痛かった。だから大学で野球やり続けてももたないだろうなと感じたのも大学に興味がなくなった理由の一つだ。

本当にこの頃の球児にとって正しい知識は大切だ。兎角この頃の子供は自分の体に力が急激についてきて力任せにプレーしがちだ。そして、力任せに自分の力を誇示しようともするから、もしよくない体の動きの反復を強いると取り返しのつかない故障の元になる。悪い動きでも一時的に強いボールを投げたりする事は可能だ。正しい動きでも同等以上のクオリティーを発揮する事は可能だけれど。

野球色の毎日

とにかく、進学校なのに勉強もせずに野球に夢中だった。練習が終わって帰ればプロ野球中継を見て研究し、スポーツニュースで違う角度から見直し。宿題なんてたまにしかしなかったトンデモな学生だった。正直、学問というものには中学入学時点で全く興味がなくそれが再燃する事は今までない。真理の追求にしか興味がなかったので学問の先にそれはないと本能的に嗅ぎ取っていたのかもしれない。野球の合間にギターを始めて、なんとも有意義だが悶々とした中学生活を送っていた。

先輩が引退して自分の代になるとキャプテンを任された。小学校の頃から委員長や中学でもずっと幹事(委員長ってやつ)をやっていたので特に重荷でも何でもなかったけれど、やってやろうという気持ちは大きかった。僕の一つ下の学年は入部者が少なく、全部で10数人という最低限の人数で戦っていた。打席で凡退すると急いでランナーコーチを交代したり、何かと大変だったが皆仲良く何とかやってたと思う。結果もついてきた。例年市内のチームには勝てないのが当たり前で、うちの学校が市内で勝とうものなら大ニュースだった。しかし、僕の代では初陣から市内の強豪校に引き分け、練習試合では他校に勝ち、相手選手が父兄からのヤジをくらい整列の時にガチで泣いていたのを覚えている。公式戦でも1勝し、うちに負けた事でチームがバラバラになり野球部やめたやつもいるらしい。まぁ、そんなん知らんけど。最後は結果が出なかったけれど、そこそこのチームにできたのはピッチャーが調子よかったり、ポテンシャルの高いメンバーが揃っていたからだと思う。我の強い奴らもいたけれど、そこそこいいチームだった気がする。

MLB、ケングリフィー・Jrとの出会いとバッティング

僕は中学2年の秋頃から打撃が開眼した。きっかけはBSが家で見れるようになり、たまにメジャーの中継を見るようになってMLBに興味を持った事だ。そこで目についたのは当時全盛期のスーパースターのケン・グリフィー・Jrだった。イチローも一時期真似するほどの紛れもない大スターである。高校時代は部室にスラッガーという雑誌のグリフィーのポスターを貼っていた。ちなみに通販でマリナーズのユニフォームも買った。ちなみにグラブもケン・グリフィーモデルを使っていた。

彼のバッティングがなぜ自分のバッティングにいい影響を及ぼしたのかというと、シンプルなスウェイバックとアッパースイングの効能だ。

当時の日本ではボールは上から叩くものというのが主流の考えだった。これははっきりいってバッティングにとって害悪でしかない。日本からスラッガーが生まれないのもこの名残ではないかと思う。上から叩くという意識は確実に上体が主導になる。体は開きやすくなるし、パワーもロスする。その為に足を上げて力を作る選手が多かった。ケングリフィーの打ち方は、野球感を大きく広げてくれ、フォームも打席に入った時の心理もよりシンプルなものにさせてくれた。これが開眼の秘訣だ。

中学から高校野球へ

最後の中体連で負けた後、全国大会に進んだ松陽中学の壮行試合をする為に他中学5校で選抜チームを作る事になった。その時に僕も呼ばれて行ったのだが、どいつも野球基礎力の高さに驚いた。身体能力やスイングスピードでは引けを取らなかったけれど、キャッチボールやゴロ捕球の基礎力の差を感じたのを覚えている。次の日からキャッチボールやボールに入る動きの基礎をとても大事にするようになった。ちなみにこの壮行試合、2試合7イニングやってエラーは0だった。ありえない中学軟式野球のレベルである。

その後、僕は中3の秋頃から高校野球の試合も出始める(ほんとはダメだけどね、時効)。始めは球が痛いとか思っていたけれど、打った打球はよく飛ぶしゴロは取りやすいしあっという間に硬式に慣れたのを覚えている。

中高一貫校の我が校の中学の野球はシームレスで高校野球と繋がっていく。

僕の中学時代というのは全体的に暗闇に覆われていて、思い出せるのがここに書いた事と、休みの日に友達と三宮のカラオケに行っていた事くらいだ(校則では禁止されていたけど)。中学時代の写真も驚くほど少ない。しかし、確実に自分が自分たる礎は築かれていた時期だと思う。

野球はどんどん好きになっていった。

 

読んでくれてありがとう。

僕はこう思う。

Taiyo Haze


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