1年生春

僕の高校野球が始まった。

三年生の先輩がゴタついたりw ぶっちゃけ弱小の高校だったので楽勝で4月の頭の試合でレギュラーで出初めて、それからは三年間ずっとレギュラーだった。はじめの数試合はしょぼいヒットは出ていたけどいまいち乗り切れず、中学の頃から練習試合には出ていたから特に戸惑うこともなかったはずなのにもどかしさばかりが募っていた。

1年生の頃、まだ三年生がいるチームで印象的な試合が2試合ある。ゴールデンウィーク前の加古川北高校との練習試合と夏の最後の大会の尼崎北(違ったかな? とりあえず尼崎市内の高校)高校との試合だ。

加古川北との練習試合 - 両親とバッティング - 

僕の高校はグラウンドが狭く自分たちのグラウンドで試合出来なかったのでいつも相手高校のグラウンドで試合を行なっていた。加古北との試合も加古北のグラウンドにお邪魔することになった。加古川駅から結構遠くて狭い道を通った記憶がある。あれは正しい道だったのだろうか? 小春日和のとても気持ちいい陽気だったのを覚えている。試合はたしか7番ライトでスタメンだった。この試合をなぜよく覚えているかというと父と母が初めて見に来た試合(中学の最後の試合には母は観に来ていたけれど)で、バッティングにおいても少し掴んだ感触があったからだ。

両親はこの後高校三年間、父か母のどちらかはおそらくほとんどの試合(土曜午後一試合だけの試合とかも)を観にきてくれた。これは当時でも感謝しかなかったが、今となってはこんなに愛を実感できることはない。僕にはおそらく反抗期という時期はなかった。好きな事は野球もギターも全てやらせてくれたし、毎試合応援と送り迎え、お茶やスポーツドリンクの世話、母は時に試合の合間にテーピングもしてくれた。小学校時代も孤立しそうな時や思い通りにいかずストレスを溜めていた時にも、共働きで一緒に過ごす時間少なめだったけれど心はいつも寄り添ってくれているという感覚はあった。お陰で惑う事なく自分の進むべき道を歩む事ができた。たとえそれが両親が望んで与えようとした安寧なキャリアでなく、失敗と挫折だらけの他人に誇れるような勲章もない道だったとしても、これは紛れもなくたった一つの僕の人生を生きている自負がある。例えば人生のどこかに岐路があってあっちにいけばもっと違った人生があったというような分岐が思い当たらない。SF物語で語られる違った世界線の僕は存在しないんじゃないだろうか。僕は高校の頃からこのように生きてきた。どんなに鈍く、利己的なクソガキでもこの環境で反抗心を抱くことはあり得ない。兄はたぶん全然違う感覚だろうと思うけど。同じものを与えても人は違うものを見る。実に面白い。

ライトを守っていて試合中に両親が駐車場からグラウンドにやって来るのが見えた瞬間の事を今でも昨日の事のように覚えている。

たしかこの試合の試合の第二打席くらいのような気がする。僕はライト前にシングルヒットを打った。加古北のダブルヘッダー一試合目のエースなのでレベル的にはそこそこだったはずだ。僕はストレートを捉えきれずにいた。追い込まれて相手ピッチャーの決め球のカーブが来た。完全にタイミングを外されてしまった、と思ったら体が回転して右手一本で拾う事ができた。真芯で捉えたので感触はないが強い打球が打てた。要するにこれが真っ直ぐ待ちの変化球対応という打ち方だ。タイミング外されてもなんとか食らいついていける、って感覚。これは圧倒的に打者がピッチャーよりレベルが高い時にだけできる打ち方だ。この場合何も怖いものはない。来た球に対し後はこちらが打ち損じるか損じないかの勝負だ。この打席以後僕は一貫してこの待ち方で過ごした。僕はこの試合で初の長打も打ち、盗塁も決め大活躍だった。ダブルヘッダー二試合目から僕はクリーンナップを任された。僕はこのチームでは大会直前に調子を落とし最後の試合は先輩に譲ったが、それ以外の試合はクリーンナップを打った。

1年夏 - 悔しさと惨めさの敗戦 - 

三年間で思い出深い試合の一つがこのチームでの夏の大会だ。大会直前このチームは絶不調だった。何をやってもうまくいかず、出るピッチャー全て大炎上して大敗を繰り返していた。対戦相手は尼崎北高校に決まった。尼崎記念球場での第一試合だった。駅から近い球場とはいえ、中途半端に尼崎は遠かったw 明石から行けない距離じゃないし、ギリギリ始発で行けば試合ができる時間帯だ。車よりも電車の方が早い。駐車場みたいな外のスペースでアップをした。球場に入っても狭いなぁ、という印象で、普段使っている高砂球場が恵まれている事を思い知った。

初めての夏の高校野球の大会で、地方大会一回戦なのに独特の雰囲気があった。応援やブラスバンド、選手の熱気が初めて体験するものだった。初回から何かふわふわしていた。ライトライナーを一つ処理した。相手投手はスリークオーター気味の右投げ投手だった。実は僕は左打ちだが右投手のサイドスローが一番苦手だった。左腕のサイドスローは確かに何球かは面食らうが、なんか対策したら打てるようなイメージがあった。どういう対策するのか考えるのが楽しかったので対戦するのは好きだった。この期に及んで苦手なタイプの投手。巡り合わせが悪かったと思うけれど、僕は緊張もあり野球人生でもっとも惨めな4打席をおくった。

試合はそれまでの練習試合で滅多打ちにあっていた先輩が異常な集中力で相手打者を抑え、当初の予想に反し(自分たちですら)終盤まで僅差で縺れた展開になった。何度か先輩が塁に出てチャンスを作ってくれたので、もし僕が一本でも打っていれば違う展開になったかもしれない。チームとしても運がなかった。先輩のいい打球も信じられないファインプレーで防がれた。左中間の大きな当たりを背走しながらスライディングキャッチなんてプロでもそんな決まるプレーではない。とにかく失意と挫折感と自分に対する惨めさで試合後悔し涙をながした。自分が三年生の時のチームが負けた時よりも覚えている涙だ。本気で大好きな先輩を勝たせたいと思っていた。告白すると三年間で唯一人の為にプレーした。

新チーム - 野望 - 

期末試験が終わり、白陵では補修という名の普通の授業(午前授業だが毎日主要科目だけある)が7月いっぱいと8月後半に行われる(冬は年末まで)。

例年通り、新チームは補修中の練習から始まった。僕は引き続きチームの主力として試合に出続けた。ポジションは若干の変化はあったけれど基本的に内野より外野の守備が好きだったし、イチローに憧れて野球を始めたからセンター、ライトから野球をするイメージが常にあった。でも、僕には少し野望もあった。ピッチャーがしたかった。一番勝利に貢献できるし目立つからだ。肩も強かったし練習すればやれるような気もしていた。とはいえ、他のポジションの練習が忙しくフリーバッティングでたまにマウンドから投げるくらいで結局本格的なピッチャーの練習をしたのは数えるほどしかない。急に練習試合でピッチャーさせられた時はストライク取るのもままならなかった。正直どういうフォームで投げればいいのかずっと戸惑っていた記憶しかない。いざマウンドに上がるとどうしても抑えたい気持ちも出てくる。でもたまに全身の力が伝わって肘が鞭のようにしなって強いスピードボールが投げられた。この球をコンスタントに投げられたら、という感覚があったので野望は抱き続けていた。結局、投手とは運命がなかったようだが。

肘の怪我

新人戦が盆明けくらいに始まりあっけなく敗退した。うちの学校は夏は盆明けくらいからまた補修授業があり、補修の終わりには補修考査がある。そして、九月の第一週に文化祭が、その次の週に体育祭が立て続けにある。夏の終わりの寂寥感は常に慌ただしい学祭の夕暮れと共にあった。

この時期は野球の試合からも遠ざかり、練習もチームで出来なかったりするので野球への集中力が切れる時期でもあった。学祭が一段落し、練習もにわかに再開した。僕は遠投の練習を行なっていた。誰よりも遠くに投げようと力みに力んでいた。最後の一投だったと思う。投げた瞬間肘が抜けたような脱力感と痛みが走った。その日はとてもじゃないが投げられず水道で肘を冷やしていた。次の日は最悪な事に久々の試合だった。肘の痛みはあったが三番ライトで出場した。外野なら一試合で全力投球しなければいけない場面に遭遇する可能性はそんなに高くない。正直痛くてバッティングにも影響はあったが、力を抜いても変わらぬバッティングが出来た。その後病院にも行ったけれど特に異常もなく、だましだましそのシーズンは過ごし二年の春まではノースローで肘を休ませた。たまに痛くなる事はあったけれど野手で投げる分には問題はなかった。しかし、肘の違和感が消える事もなく肘がしなって球に力伝わる感覚はその後戻らなかった。30代になる頃までは冷房などで肘が冷えると時折疼く事もあった。結局これが投手との運命の糸が切れた瞬間で野球を辞めようというきっかけとなった。これがなければ本気で音楽をしていなかっただろうが、なぜか初めからこれも運命と受け入れる事ができて一切の後悔はない。

捕手挑戦

二年生の夏の大会に向けての一番の思い出はポジションがキャッチャーになった事だ。実は中学の時も強肩をかわれてキャッチャーをしていた事がある。リードは楽しかったし、バッターを欺く事に長けた天性の観察眼があった。並みのバッターなら大体体つき、表情、フォーム、雰囲気から走力、打力、スイングの癖、思考を想像する事が出来た。しかし、学んだ事もあった。どんなに読みを外して四隅に投げ分けたとしても急速がなければ、一般高校のクリーンナップレベルの打者ならば反応で対応出来てしまう。ましてそんな完璧なコントロールがあるピッチャーなんてうちの学校にも強豪校にもそうはいない。やっぱり球威は投手の最大の武器だと思う。

リードやなんかは楽しくても僕に捕手は向いていなかった。それは性格的な問題だと思う。僕は献身的にピッチャーを盛り上げようという気概は薄かった。キャッチャーは痛い事ばっかりだし。当時は自分が目立つ事が一番だった。思えば一番適性のあるポジションだったかもしれないが、そこに気がつくには僕はまだ幼かった。野球で大成しなかった大きな理由は肘とこの事かもしれないと今では思う。

二年夏 - 失意 - 

おかげで夏の大会は散々な目の当事者になった。相手は高砂南高校だ。地区の中でも有数の強豪校で部員は当時70人以上いたはずだ。普通に考えても勝ち目はなかったと思う。キャプテンが抽選会から帰ってきてなんちゅうとこ引いたんや、と思った。でも、ほとんどが格上のチームばかりだからいつもの事だ。チームは特に臆する事もなく試合当日を迎えていた。

7月のあいにくの梅雨空。今にも降ってきそうな天気だった。その試合も三番キャッチャーで出場した。流石のレベルの高さだとは思ったけどこの試合はほとんど相手の印象が残っていない。自分の打席の記憶さえほとんどない。残っているのは審判の印象だけだ。審判と闘っていたからだ。こういう事を書くのはスポーツマンシップに悖るという意見があるのは知っている。アマチュアの高校野球なのでひどい審判にあたる事も自分たちで審判するからいい加減になる事もある。印象で判定される事があってもそれは幾度も受け入れてきたし不満に思った事もない。審判してくれるだけでも有難い事だ。不満が感謝を超える事などあり得ない事だと思っていた。

この試合の審判の顔と名前は今でも覚えている。一生忘れないだろう。この試合が最期になった先輩が気の毒で仕方がない。初回からうちのピッチャーが投げるど真ん中のゾーンがボールに判定された。これは一度や二度ではない。こんな事中学で野球を初めて以来初めてだ。野球をしていれば明らかにおかしいと感じるレベルのインチキ判定なのだ。ど真ん中がボールなのだからいいところに投げても当然ボールになる。僕は何度も今のゾーンは高いか低いか審判に聞いた。その度に判定に文句を言っているように取られて嫌な雰囲気になる。言い過ぎはもっと不利になる。僕たちはただ打ちやすいところに投げ込んで相手が打ち損じるの待つしかアウトを取る術がなくなった。真ん中近辺に投げて抑えられる球威がある投手なんてうちにはいなかった。打席の唯一の記憶は恐ろしく際どい外角いっぱいのコースをストライク判定された事だ。最後は降り出した雨に願いを託した。しかし、雨は強くなるばかりで結果、17-0の5回コールドだった。

この試合のあとは悔しさより失意しかなかった。あのど真ん中のボールがストライクと判定されたからと言って試合がひっくり返ったとは思わない。10回やればほとんどコールドゲームになるくらいの実力差があるのはわかっていた。僕たちの学校が私立の進学校でお勉強ばかりして鼻持ちならい奴らだ、と地元ではよく思っていない人がいる事も知っている。野球関係者の中にも。たしかに彼らの高校のような練習施設も部員数もなければ、十分な練習時間を費やして野球も出来ない、下手くそだ。だが、それで野球を舐めてると言われるのは心外だ。与えられた環境の中で未熟ながらも僕たちは高見監督の指導の元真摯に野球に取り組んできた。同じ進学校とも練習時間をする事があったが、うちほど野球部らしい高校野球をしている進学校は他になかったと思う。もし、本当に勉強だけが大事なら夏のこの時期まで野球をするなんて不利でしかない。うちの野球部の場合、毎週試合があって夏休みもほとんど練習があり、練習自体も柔道部なんかに比べて時間も疲労度も負担が大きい(短時間集中といっても競技的な限度がある)。だから、僕たちの学校は中学で野球を辞める部員、途中で辞める部員は毎年必ずいる。僕らの年にもいた。だから一部の人間の思いで僕たちの時間と思いが踏みにじられたのはとても残念だ。様々な環境でベストを尽くす球児がいるからこそ、甲子園だけではない、勝ち負けを越えた高校野球の魅力があるのだ。

人生ではこのような事に出会うことは避けられないけれど、高校野球の精神の崇高さを純粋に信じていたあの頃は辛かった。

大雨が高砂球場の観客席の屋根を叩く中最後のミーティングをして、このチームの夏は終わった。ほとんど言葉はなかった。

続く

 

読んでくれてありがとう。

僕はこう思う。

Taiyo Haze


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