コーヒーとの出会い

陽水の「少年時代」が流れてきそうな、まだまだ暑い夏の午後。いつかきっと書こうと思っていたのだけれど、すっかり忘れていたトピックを思い出した。

音楽とコーヒーと自分。

自分のホームページを持とうと思った時から書こうと思っていたのになんで今まで忘れてしまっていたのだろう。不思議だ。そして、コーヒーを淹れるには向いていないこの暑い夏になぜだろう。一般的に湿気のある夏は豆の管理もしにくいし、コーヒーがうまく淹れられないという。それは本当かどうかはわからないけれど、暑い夏には熱いホットーコーヒーのありがたみが薄くなるのは事実。スタジオのエアコンで冷えた体にはたまらなく美味しいのだけれど。

僕は元々コーヒーの好きな少年ではなかった。なんなら紅茶は今でも大嫌いだ。少年時代、朝ごはんにコーヒーが出てくることがあったが本当に嫌いで口もつけず、母親に悪態をついたこともあった。苦いだけのぬるぬるした黒い液体程度にしか思っていなかったし、インスタントコーヒーの溶け残った豆が表面に浮いてたりするとキモいものでしかなかった。母からするとトーストにはコーヒーやろ、的なところがあったのかもしれないが僕はどうにもその食パンも好きになれなかった。パンの耳が寝起きの僕には腹立たしいぱさぱさした安っぽい障壁にしか思えなかった。結局朝はお茶漬け(永谷園ではなくお湯に昆布とか、いかなごとか入れるだけの質素なもの)か弁当のあまりのおにぎりとお茶に落ち着いた。それでいい。最高だ。

こんな僕だから成人するまではコーヒーの思い出は、幼稚園の頃に土曜日だけに出されていた瓶に入ったコーヒー牛乳と、高校生の時、東大生協の自販で兄に教えてもらった「がぶ飲みミルクコーヒー」くらいしかない。

僕とコーヒーの本格的な出会いは師匠と音楽の出会いとともにあった。師匠が札幌出身でコーヒーが大好きという人だったからだ。バリバリのロッカーなのに一滴もお酒を飲めなかった。北海道とコーヒー実に合う。そしてたまに師匠自ら淹れてくれたが、基本的には喫茶店で飲んでいる人だったので至る所のいい喫茶店を知っていて東京中のいい感じの喫茶店を連れ立って歩いていた。その喫茶店で様々な話を聞き、色んな人の音楽を、人生を学びそれが僕の礎を築いた。コーヒーのそばにはいつも音楽があった。

スタジオワークとコーヒー

コーヒーはクリエイティブのお供に日本だけでなく、世界で重宝されている。スタジオに行けばどこでも、リハスタでさえもコーヒーがポットに温められていて無料や、格安で振舞われていたりする。偉ぶるつもりではないがスタジオのコーヒーを飲めばそのスタジオがどんなもんか大体わかる。おそらく師匠はもっとわかっていただろうから、自分のスタジオで淹れるコーヒーにはすこぶる厳しかった。本当に追い込んで純粋に音楽に向かい合った後にクソまずいコーヒーは飲みたくないという気持ちを本当のところで僕が理解したのは自分でも音楽を創り始めた時だ。ただギターを弾いていた頃にはわかったつもりでいたがわかっていなかった。

僕が弟子としてスタジオに入り浸るようになった始めの頃やっていた事といえばギターの練習と電話番、掃除くらいだ。そしていつからか、おそらくこいつは続きそうだ、と認められてからだと思うけれどスタジオのコーヒーを準備する仕事を任された。もちろんマシーンではなく、ハンドドリップでコーヒーを落とす。それまでは上司というか兄弟子というかそんな肩書きで表現できないくらい非常に縁の深い人がコーヒーを用意してくれていて、僕もたまにそれにありついていた。

コーヒーというのは他の嗜好品と違ってうめぇ〜と飛び上がって美味しがるようなものではない。もしそういうわざとらしいYouTubeでも見たら嘘だと思っていい。コーヒーは決してその空間の主体にはならない不思議な飲み物だ。ジュースやお酒ならばそれを飲む事自体が目的になる。水やお茶は水分補給の為、生理的な要求から飲む。しかしコーヒーはどれにも当てはまらない。コーヒーだけを求めて喫茶店に入ったり、自分で淹れる事もある。しかし、それはコーヒーを飲んで一息入れたい、静かに考え事をしたいという欲求の副次的な欲求によるものである。カフェでコーヒーを飲むのが好きという人にたまに出会う。しかし、その意味はカフェという空間で飲む、という事が好きなのであって、そのコーヒーをタンブラーに入れてコンビニのカフェコーナーでも飲みたいという意味ではない。プレモルなら居酒屋だろうとコンビニの前だろうと家だろうとどこでも美味い。コーヒーには自分と空間を繋ぐ不思議な効力があるように思う。それはカフェインの為せる技だ、とか知ったようなくっちゃべりは言わんでくれよ。

クリエイティブな現場では本人が意識するかしないかは別にして自分と向き合う時間が多い。あくまで主体は自分の中と外の世界なのだけれど、そんな時邪魔をせずに、自分の中の世界と外の世界を繋いでくれる何かがあると嬉しい。それがスタジオワークにおけるコーヒーなのだと思う。もちろん胃が弱い人や、コーヒーの苦味に敏感な人で飲まない人はいるけれど、大概はあると嬉しい。同じカフェイン飲料のレッドブルやモンスターには果たせない役割がある。それがスタジオワークにおけるコーヒーだ。

コーヒーはそれはソウルドリンクである

正直言おう。僕が師匠の元でコーヒー淹れていた頃、その味の評判はすこぶる悪かった。何度も不味いと言われて淹れ直し、それでもダメで見かねて上司や師匠自らが淹れる始末で、コーヒーを淹れる役目としては役に立っていたとは思えない。残しておいた自分のコーヒーと師匠が淹れてくれたコーヒーを飲み比べた事がある。明らかに味が違う。同じ豆、水、器具を使っているから似ているのだけれど明らかに違う。まぁ、プラシーボかもしれないし、と小賢しい事を考えていたが、ある時二週連続同じお客さんがきた。一週目は僕がコーヒーを淹れて出した。帰り際に食器を下げる時にみたら半分以上残っていた。次の週、僕がスタジオの片付けをしていた事もあって上司が代りに用意してくれていた。その日そのお客さんはコーヒーを飲み干しお代わりも願い出た。カップを受け取る時、「腕を上げたな」と悲しいお褒めの言葉を頂いた。やっぱり、不味いと思ってたんかい!、と内心思っていたけれどこればかりは結果が全てで、自分の未熟さと愚かさを知るいい機会となった。あの当時、僕のコーヒーは確かに不味かった。

美味く淹れられなかったのも仕方がない。始めに書いたように僕にはコーヒーを飲むという文化がなかった。外国人が俳句を読むようなものだ。一から文化を創る作業から始めなければいけなかった。しかし、それは僕の中に芳醇な本物のロックスピリットを創る作業と似ていた。幸いコーヒーもロックも好きだ。ひたすら文化を創る事だ。何℃で淹れるとか、豆がどうとか、ここは代理コードで、なんて小手先の事をいくら覚えても文化は出来ない。文化、それは当たり前にあるものだ。美味しいコーヒーが当たり前にあり、いいロック、音楽が当たり前にある事。それが一番大切だと思う。それが無ければ人生自体が脆弱なイミテーションになってしまう、と今の僕は感じる。

コーヒーは不思議な飲み物だとつくづく思う。同じ喫茶店でも淹れる人が変わると味が大きく違う。一見美味しいのだが、なぜか二杯飲むと腹がもたれる人と同じ店でも違う人がいる。淹れ方を観察していても違いはわからない。なんならサイフォンで淹れている場合でもそれは起こる。自分が淹れていてもどうもダメな時がある。何かイライラしているのがわかる人が淹れるコーヒーは何か刺々しい。愛もなく適当に淹れられたコーヒーはしゃばだばな味がする。何でもそうだと思うが特にコーヒーは淹れる人の魂が写し出されているように思う。だから僕はコーヒーはソウルドリンクだと思っている。自分の魂も世界の魂の影もコーヒーの純黒の湖面に映し出されている。それも音楽の空気振動の中にその人の魂が揺らめいているのに似ている。

 

長くなってきたからここまでにしよう。また機会があればコーヒーについて書きたいと思う。

 

 

読んでくれてありがとう。

僕はこう思う。

Taiyo Haze

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA