僕が好きな映画監督をあげる時、一番にあげるのがクリント・イーストウッドです。

言わずと知れた巨匠なのですが、俳優としても数多くの作品に出演しています。ロバート・デニーロのような演技派ではないけれど、彼にしか出来ない、存在感のある映画くさい演技をしていて僕は好きです。御歳90を迎えて俳優として役を積極的にこなす事をやめてしまったようですが、2018年公開の『運び屋』では彼にしか出来ない味のあるジジイを見事に演じていました。今でも彼にしか撮れない映画を撮り続けていて、毎年公開しています。年齢に関係なく、彼のキャリアで一貫したクリエイティビティは驚異に値します。デビューから休む事なくひたすら年に一本は映画を発表しています。Unbelievable!

僕が一番最初にハマったのが『ダーティハリー1』ですね。まぁ、名作というか超有名作品なのですが、やはりあの冒頭のシーンでやられましたw 日本で44マグナム信仰を流行らせた張本人です。あれがなければシティーハンターとか、それに影響された作品群はないわけですから日本人にとっても意義深い作品なのです。この作品を見て以来、何度44マグナムのモデルガンを買おうとしたことか。買わなかったけど。あの手の映画らしい大袈裟で洒落の効いた演出はリアル至上主義の人には評価が分かれるところですが、クリント・イーストウッドの映画ではその手法が随所に見られます。僕は各作品でちょうどいいバランスの演出具合を保っていると思うので評価しています。『ガントレット』の中で、家を銃で打ちまくって家が崩壊する演出とか全くジョークなんですが、この映画の中では成り立ちます。やりすぎると外連なものになって、時代とともに嘲笑の対象になり忘れられていきます。作品が残って後の世代の人にも受け入れられるのならそれは成功だったのでしょう。

クリント・イーストウッドはマカロニウエスタンでスターになりました。彼の初期のキャリアではアクションや激しい作品が多いのですが、自分でも映画監督をするようになってから様々なタイプの映画を撮っています。『マディソン郡の橋』、『ミスティック・リバー』、『ミッシングリンク』のような文芸的で内省的な作品や、『センチメンタル・アドベンチャー』、『バード』、『ジャージーボーイズ』のような音楽が中心の作品。『ミリオンダラー・ベイビー』、『インビクタス』、『人生の特等席』のようなスポーツシーンの多いもの、『スペースカウボーイ』のようなSF的作品まで多岐に渡ります。ここまで多様な作品を撮っているのはクリント・イーストウッドくらいではないでしょうか。

どのクリント・イーストウッドの映画作品の中にも他の監督にはない独特の彼らしさがあります。それは彼独特の視点にあります。または物語との距離感と表現してもよいかもしれません。観客にただ物語を目撃させるという、主観を感じさせない視点で撮影しています。これは簡単なようで人が人で有る限りかなり難しい手法です。たとえそれが国営放送のドキュメンタリーやニュースであっても、悲惨なものは悲惨に、可愛い女の子や男の子は可愛く。無意識にそうなるように撮ってしまいます。それは特別な事ではないので普段は意識しない事です。まして、映画では監督や製作会社の意図があるのでそれが強く出て当たり前です。政治的、哲学的ポリシーが強く出て、それが魅力となる作品もたくさんあります。逆にそういう「テーマ」がある作品の方が賞レースや専門家うけはいいように思います。しかし、クリント・イーストウッドにはほとんどそういうものが感じられません。『ミリオンダラー・ベイビー』でクリント・イーストウッド演じるフランキーが安楽死を選択するシーンに具体的なセンチメンタルな葛藤シーンなどはなく、最後ただ人工呼吸器を止めて立ち去ります。普通の映画なら号泣しながら誰かに訴えたりするシーンがあっても不思議ではありません。『アメリカンスナイパー』でも主人公を特に英雄的に描くわけでもなく、ただ物語を見せます。たまに誰の視点かわからない俯瞰でもない妙なカメラワークも存在するのですが、そのせいで物語が誰かのものではなく視聴者のものになっていくような気がします。

この独特な彼の感性の源を知りたくて彼の自伝本やネット情報を漁りました。そして、もしかするとこれは彼が長年やっているTM瞑想の影響ではないかと思うようになりました。TM瞑想とはインドの瞑想方の一つなのですが、ビートルズやハリウッドのスターが取り入れて有名になったものです。インド哲学では真我に至る、日本的にわかりやすく言えば悟りを開く事が究極の状態としています。その状態、意識レベルに至ると五感、感情、私たちが日々経験している世界とは関係ない離れた場所に真我、悟りがあるとわかります。そして、その人が私たちと同じ世界で活動をする時、何かが起こった時より精緻に五感や感情を楽しみ、どんな大きな喜びにも悲しみにも心と体、自分が支配されることはありません。真我、悟りは切り離された所にあるからです。これだけ言うとただの逃避の心理のように思われますが違います。詳しく話すととんでもなく長話になるのでここでは遠慮しておきます。受け取る側に合わせた道順、言葉があるので、またいつか。

彼がこのような哲学的問題に興味があるようには思えませんが、ヴェーダではただ瞑想をし心をクリーンにして活動をする人は努力することなく、自然とそのような状態に至るとあります。クリント・イーストウッドの豊かで繊細な感情の探知能力や、超然とした視点は西洋的な感性というより、やおよろずの東洋的なものを感じます。映画館の観客はその視点から物語の感情や感覚を楽しむのです。僕の邪推かもしれませんが、独特の妙な視点は他の監督にはないバックグラウンドにあるのかもしれません。

僕は彼の音楽的な趣向も好きなのですが、その話はまた機会があれば。

クリント・イーストウッド作品はなんとなく何の気なしに映画館でみたら、いい映画見た、という感じになれる雰囲気を常に持っています。彼ほど映画館が似合う作品を作っている人はいないでしょう。すごいものは評価して気張って見なければいけませんが、彼の作品はそう言う部分がないので、来て見て感じて物語を自分のものにして帰れます。クリント・イーストウッドの映画だったと言えば大抵の批評家も納得してくれます。

暇なお家タイムではぜひクリント・イーストウッド作品を何の気なしに見てみてください。

 

読んでくれてありがとう。

僕はこう思う。

Taiyo Haze

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